X JAPAN 二人目の訃報


TAIJIこと沢田泰司が、
拘束されていた施設の独房で自殺を図り、
結局死亡したらしいわ。

ベッドシーツを使って首を吊ったって。

君は大丈夫か


今月11日に、成田からサイパンへ行く
機内で窓をたたいたり、前の席を蹴ったりして、
客室乗務員に暴行を加えた疑いで
現地の警察に逮捕されていたの。

7月12日が誕生日だった。

満45歳の誕生日は
独房で迎えただけじゃなく、
悲劇的な結末になったわね。


TAIJIは、ロックグループX(現X JAPAN)の
元ベーシストだった。

集中治療室(ICU)に運び込まれたけど、
脳死状態になっていて、

付き添っていた母と婚約者が
生命維持装置を外すことに同意したんだって。

『魔法戦隊マジレンジャー』のエンディング
テーマなどを唄うSister MAYOは実妹。

魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE メイキング

ウィキペディアに略歴が載ってる。
幸せな家庭環境じゃなかったようね。

1966年7月12日、千葉県市川市に生まれる。兄と妹が一人ずつ。

2歳の時、親がやっていた工場の機械に手を突っ込み、
右手中指の第一関節から上を切断した。

1974年、小学2年生でアコースティックギターをプレイし始め、
3ヶ月後のクラス会で初ステージ。
曲は「禁じられた遊び(正確には映画「禁じられた遊び」の
テーマソング「愛のロマンス」)」だった。

1978年-、中学生になると家庭の事情(両親が離婚し、
母親が再婚したらしい)もあって、非行にはしる。
本人曰く「中学3年までにケンカ、バイク、シンナー、
女の類は全部やった」とのこと。

1985年、友人のバンド「ディメンシア」でベースを
プレイしたことがきっかけで、ベーシストへ転向。
ディメンシア時代はRayという名を名乗っていた。
その後、ディメンシア脱退後はプローラーに加入するも、
リーダーのセイブン (Vo)と反りが合わずライブを一度も
行うことなく脱退。また家も勘当され、
一時期渋谷のラブホテルで住み込みのアルバイトをして
暮らしていた
(Xのメジャーデビュー後のライヴに両親を招待し、
和解したらしい)。

あの人と和解する


1986年、いくつかのバンドを渡り歩いた後に
Xへと正式加入。当時沢田はXの音楽性が自分に
合わず加入するつもりはなかったが、
YOSHIKIの熱心な誘いを受けるうちに
「この人となら音楽以外の何かでもできそうだ」と感じ、
沢田の推薦するギタリストと交代させることを条件に
Xに加入することになったと語っている
(1992年に雑誌「Fool's Mate」でのインタビューから)。

その後一度脱退しているが、また戻ってきている。
この時のXは、インディーズの頃からメンバーに課せられる
出費が大きく、とてもアルバイトでは追い付かなくなり、
身の回りの物を売り払ってまでお金を用意していた。

ひどい時は電気を止められ、食べる物を買うお金がなくなり、
コンビニエンスストアでパンを盗んで飢えをしのいでいた。

「空腹」療法


1989年、Xメジャーデビュー。

1992年1月31日、X脱退(実質的には解雇)。
ラストステージは1月7日の東京ドーム3days。

原因は、収入格差に文句を言ったのと
YOSHIKIのドラムプレイに対して平気でダメ出しを
する様になってYOSHIKIとの間に軋轢が生じたからでは
ないかと沢田自身は自伝にて述べている。

Xからの公式な発表では音楽性とファッションの違いと
されていたが、YOSHIKI自伝「佳樹」の中で「TAIJIのベースは
Xに必要だったが、YOSHIKIとTAIJIの間での約束をいとも
簡単に破ったこと」が原因として挙げられた。

1992年4月頃、親交のあったLOUDNESSに前任ベーシスト
山下昌良の推薦で加入。芸名をTAIJIから本名の沢田泰司に改める。

1993年11月、LOUDNESS脱退。この年LOUDNESSは契約上のトラブルで
解散状態になっていた。その後リーダーの樋口宗孝より
LOUDNESS再始動の呼びかけがあったものの、解散状態であった時期に
LOUDNESSの活動を諦め、ソロアルバムの制作(後のD.T.R)を決めていた
ためにタイミング的に再集結を辞退し、脱退せざるを得なかった。
再始動を呼び掛けたリーダーの樋口自身もその直後に脱退。
以後高崎以外のオリジナルメンバーを全て失ったLOUDNESSは
2000年のオリジナルメンバー復活まで『高崎晃プロジェクト』に
近い形で活動を行うことになる。

1994年7月、自身がリーダーを務めるDirty Trash Roadを結成。
バンドと同名のアルバム「Dirty Trash Road」とそのアレンジ違いの
「Dirty Trash Road〜Acoustic」を二枚同時発売する。

1995年、芸名を本名から沢田大司に改名、
またバンド名を略称のD.T.Rを正式名称に変更。
D.T.Rの2ndアルバム「Daring Tribal Roar」をリリース。
またNIGHT HAWKSの青木秀一の呼びかけで
聖飢魔IIのSgt.Luke篁III世参謀(現:CANTAのルーク篁)、
44MAGNUM〜ZIGGYの宮脇“JOE”知史らと共にKingsを結成。
アルバムをリリースする。

1996年頃、D.T.R事実上の活動休止。
ほぼ同時期に経済的な理由で妻とは離婚。
以降約2年に渡って放浪生活を送る。
この頃は倉庫などに寝泊りしていた。
この時期、喧嘩をし前歯を折られるなどの被害に遭う。 
     
1998年5月、HIDEの葬儀に出席し、
久々に旧友たちと再会を果たす。
その後、彼らの支援によって活動を再開する。

この頃に芸名を本名の沢田泰司に再び戻す。

やがてCloud Nineを結成するも、Cloud Nineでは出来ない
アコースティックな音楽も志向しているという理由で
間もなく脱退した。
(しかし、メンバーとは良好な関係を続けていた。)

その後音風を結成してギターとベース・ギターを兼任で在籍。
音風には、ボーカリストとして実妹のMASAYOも在籍。


2005年、バイク事故を起こし足の靭帯を切断するほどの
大怪我を負う。手術費用工面のため、自身のベースを
インターネットオークションに出品することになる。


2006年、1月8日にMASAYOの脱退が音風公式サイトで発表された。
また、同年7月30日より再びD.T.Rの活動を再開、
個人としては初となるオフィシャルサイトがオープン。
そして、シルバーアクセサリーブランド「DTROCKERS」を立ち上げる。

2007年6月13日、HOLIDAY SHINJUKUにて開催された
元COLORのMARRYの追悼GIG「6.14 Memorial LIVE TOKYO」に
ゲスト出演。RAPESの新谷の呼びかけによるものであることを
ブログで明かしている。ステージで「何故ここに来たかと言うと
MARRYは友達だから。MARRYの事が好きだから」とMCをした。

2007年10月、Cloud Nineより、ベーシストのMARUが脱退したため、
Cloud Nineに期間限定で電撃復帰。
期間限定とはいつまでなのかは詳しいリリースがないため、
現時点では定かではない。その後、D.T.Rについての更新も途絶えた。

2008年7月公開の映画「attitude」で音楽監督を務める。
自身のブログでは大仁田厚へ楽曲提供を行うことも発表された。


2008年9月、持病のてんかん・脳梗塞が悪化、
左足大腿骨頭壊死による人工股関節が外れ緊急手術。

歩行困難となり、12月2日に転倒事故で胸と喉を強打し
入院したことが自身のブログで
(スタッフによって)明らかにされた。


2005年のバイク事故や
2008年に持病のてんかん・脳梗塞が悪化してからは、

単なる経済的に困っているだけじゃなくて、
肉体的にも不安を抱えて、

相当追い詰められていたんじゃないかしら。

2chではクスリの影響を疑う発言もあったけど、
そんなおカネがあったのかどうか。

音楽的には、けっこう評価が高いみたいなんだけど、
経歴を見るとそれを生かすところまで行かなかった
ように思えるわね。